はじめに
この原稿に関してはちょっと長いです。回顧録的でもありますが、きっとファンドとファンドマネージャーの世界を感じて貰うのに役立つと思って、敢えて分割掲載もせず、一本の原稿としています。予めご理解の上、お読み頂けたら幸いです。
そのファンドは1997年10月29日に生まれた。名前は「さくら株式アナライザー・オープン」。私が設計開発から運用まで担当する株式専用の追加型投資信託としては、確か3本目だったと思う。同じように設計開発から運用まで担当したのは最初のファンドは「さくら日本株オープン」。どちらも銀行系投信会社としては当時極めて珍しい、株式の組み入れに制限が無い、すなわち100%株式が組み入れられるファンドだった。
運用会社の合併により、どちらも「さくら」の部分が「三井住友」と入れ替わっているが、今でもファンド自体はどちらも存続している。
「さくら日本株オープン」の方が、銀行系で初めての株式投信だし、モーニングスターのファンド・オブ・ザ・イヤーなど諸々の表彰も受けたファンドなので、極めて強い思い入れが未だにあるが、今日は今朝の「日経新聞朝刊早読み」を書いた時に引用した段階で、グッと懐かしさが込み上げてきたので、「さくら株式アナライザー・オープン」(以下、アナライザー)への想いについて綴ってみたい。実はこちらの方が、次男坊のようで可愛く感じていたのも事実だから。
1996年11月に初めて米国企業調査の出張をした時から物語は始まる
実はアナライザーを設定した時には、私が担当運用するファンドは全部で7本、既に日本株専用ファンドが単位型と追加型を合わせて4本、デリバティブ型200%のファンドが1本、そして転換社債を使ったファンドが2本と結構な数のファンドを一人で運用していた。
今でこそ、トップ・ダウン型だのボトム・アップ型だの、或いはバリュー投資だのグロース投資だのと、運用スタイルにもいろいろな定義が産まれたが、記憶の限り、その当時にそうした表現でファンドの特徴を標榜していたファンドはほぼ無かったと思う。と言うより、まともに投資家に寄り添う事を考えて運用されている投資信託自体が少なかったように思う。
そんな環境下であったことも手伝ったのだと思うが、私が運用していた3つのファンド、日本株専用の「さくら日本株オープン」、株と先物を最大100%ずつロングする(MAX200%)「さくら株式ブル・トレンド・オープン」、転換社債を株式的価値と債券的価値に分け、その株式的価値の部分を日経225オプションでヘッジするという「さくらCBファンド9404」が揃って、同種分類の並み居る競合達の中で、半年間、1年間、2年間だったと思うが、全ての評価期間において騰落率がトップの三冠王になったことがあった。
当時、今でも鮮明に覚えているが、極東証券の菊池社長にご挨拶にお伺いした時にこんなことを言われた。それは「銀行員の若造(当時33歳)が運用する日本株ファンドなんて上手く行くわけがない」と。こんなことを面と向かって言われるぐらい、銀行勢の株式運用は後発組だし、株は証券会社のものと思われていた。にも拘わらず、私の3ファンドが揃ってトップを取ったのだから、とてもこれはエポックメイキングな出来事であった。
当然、銀行の資金証券部関係者も喜んでくれたし、当時のさくら投信の川越社長も手放しで喜んでくれた。そして頭取表彰と共に与えられたのが米国出張の機会であった。これこそが私をアナライザー開発に駆り立てた原動力となったし、その後の私の運用スタイルを決定づけた出張となった。
当時トヨタのライバルは米国BIG3、京セラはインテルを向いて仕事をしていた
菊池社長に言われたからではないが、私は兎に角「銀行員の若造でも、株の運用は上手く行くところを見せてやる」と燃えていた。というより、必死だった。証券会社の営業マンからは毎日何十本という電話が掛かってきて情報が提供されていたが、私は自分の知らない会社に投資をするのだけは嫌だった。勿論、殆どの投資対象が東証一部のそれであり、名前や事業内容、業績などは門前の小僧習わぬ経を読むではないが、ディーリングルームに既に6年以上居たので知らぬものは無かったが、何処にある、どんな会社なのかを知らずに投資して損をするのだけは嫌だった。
だから可能な限り、当時は簡単に国内と雖も出張を許してくれる風土では無かったが、色々と言い包めて、京都や名古屋などへも投資対象先の企業調査に足を運ぶようになっていた。ただ都度思ったことが、国際企業の調査を日本だけでやっていても分からないことが多過ぎるという事だ。例えば、トヨタは当時半分以上の利益を北米で稼いでいたので、国内の自動車市場の動向よりも、米国市場の動向及びライバルであるBIG3(GM、Ford、Chrysler)が何をどう考えているのかを知るべきだった。
また京セラが京都山科のベンチャーから成長するきっかけとなったのは、当時ペンティアムで破竹の勢いであったインテルから半導体のセラミック・パッケージの受注に成功したからだ。エポキシ系からセラミックになって、その先有機系、或いはベアチップ実装などへと変化していく半導体のパッケージだが、当のシリコンバレーのインテルが何をこの先考えているのかを知らずして、京セラ株を信じて買っていて良いものなのかと京都出張の帰り道などによく考えた。そこに与えられたのが「大島君、凄いパフォーマンスを挙げたことだし、アメリカでも視察に行って来たら」という夢のような話だった。
本当は単なるご褒美旅行で拠点を回れば良かったのだが・・・
当初川越社長が言って下さったのは、所謂「ご褒美旅行」。ニュー・ヨークやロスアンゼルスなどにある銀行の支店や拠点を表敬訪問と称して観光旅行をするような話だった。事実「ナイアガラの滝も行くの?」と直前にまだ聞かれたりした。ただ私はそんな観光旅行などする気は毛頭なく、当時仲良くしていた勧角証券の先物デスクのチーフトレーダーだった山田氏に何気なく「アメリカってどんなところですかね?」と相談してみた。実は彼がNY支店帰りだったからなのだが、すると山田氏の反応は思いがけずビビッドなもので、すかさず同社のNY駐在員であった芝田さんを紹介してくれた。結局、この芝田さんと日本で一度、そして電話で何度も話すうちに、シリコンバレーから会社訪問をしながらニュー・ヨークへ北米を横断する企業訪問ツアーを企画することになり、私の始めての北米横断ツアー2週間の旅が1996年11月に決行された。
実は初めてのアメリカ本土上陸だった
香港やグアム、或いはハワイ程度までは海外旅行に行ったことはあったが、実はアメリカ本土への上陸はこれが初めての経験だった。芝田さんとはサンフランシスコの空港で待ち合わせることにし、ひとり成田から向かったのだが、まるで気分はジョン万次郎のようなもので、不安も多少はあったように思うが、兎に角、期待が膨らんで機内から相当な鼻息だったことを記憶している。なにせ、あの狭い747のトイレの中で、張り切ってスーツに着替えたのだから。今考えるとまるでシリコンバレーのTPOすらわきまえていない。そして初めてのアメリカ本土は、微塵も私の期待を裏切らず、またこれがアメリカの投資の世界だという事を強く感じさせてくれた。この辺りの話は、また別の機会に道中記として綴ってみたい。
インベスター・リレーションズという専門のセクションとの出会い
当時、私以外で日本企業にファンドマネージャーが直接訪問する機会などは稀だったようで、事実、天下の国際企業であったSONYでさえ、決算説明会に参加させて貰えないことがあった。断り文句は「アナリストの方専用なので、ファン、ファンドマネージャーさんは・・・」というもの。その後は某社の自動車のアナリストの名刺を借りて潜り込んだりしていたが、その当時でさえ、米国企業にはすべて「インベスター・リレーションズ」という投資家向けの専用セクションが完備していた。
ただ不思議なことにFDルール、Fair Disclosure(フェア・ディスクロージャー:公平な開示)という概念は、当時の米国でもまだそこまで厳しくなく、極東の島国からスーツ姿のファンドマネージャーは、シリコンバレーを手始めに、何処に行っても手厚い応対をして貰えた。決して接待供応という意味ではなく、純粋に「当社に投資をするには、何を開示し、見せたらいい?」という意味で、多くのことを開示してくれたり、デモを見せてくれたりするという意味での手厚さである。GMはデトロイトで工場見学をさせてくれ、NYで財務部が出迎えてくれた。
そんな密度の濃い企業調査を時差ボケでウサギみたいな真っ赤な目になりながら一日平均して3社~4社、シリコンバレーに始まって、シアトル、デトロイト、シカゴ、ニュー・ヨークと2週間掛けて走り回った。空港に着くとHertzのレンタカーを借り出し、地図を頼りにフリーウェイを走り回ったものだ。結果、私の取材ノートは丸々3冊にもなった(当時は気軽に持ち出せるような軽いノートバソコンなどなく、手書きとFAXがまだ主流)。
何故、米国企業に投資をするファンドを作らないんだ?
帰国する飛行機の中から、既にアナライザーの構想は私の頭の中に出来上がっていた。何故なら、ファンドマネージャーとして、投資家の端くれとして、今回訪問したような北米企業に投資をしない理由がどうにも見当たらないからだ。限られた日本株という選択肢の中で、無理やり半導体銘柄として総合電機や通信機器のNECや富士通を買う必要などなく、ど真ん中のCPUメーカー、インテルを買えば良いじゃないか。北米自動車市場が好調ならば、メインプレイヤーのGMを買えば良いじゃないかと、それが極めて普通の発想だと思い込むようになっていたからだ。
とは言え、私が「米国株式のファンドをやりたい」と言っても、間違いなく銀行員の上司達は認めてくれないだろう。極東証券の菊池社長ではないが、米国株式専門のファンドを「日本人の銀行員の若造がやって上手く行くわけがない」という答えに辿り着くことは火を見るよりも明らかであった。
半分では多過ぎる、3分の1なら大丈夫だろう
そこでこじつけたアイデアが「ファンドの30%を上限に外国株式を組入れることが出来るファンド。但し為替リスクは負わないように、原則フルヘッジとする」というアナライザーの基本発想である。確かこの比率ならば、税法上の問題や金融機関が保有する場合の規制などでも、特段国内株式専用ファンドと違う取り扱いを受けることが無い割合だったのだと記憶しているが、このアイデアを持って、社内、資金証券企画部、販売証券へとプレゼンして回った。当時も今も同じだが、販売会社というのは常に売り易い商品かどうかを中心に考えてくれる。だから目先の変わったところで、先に設定している「日本株オープン」とも被らないということで、基本OKということになった。
ファンドのパンフレットに、自分の顔写真を入れたり、情報開示に重点
1994年9月27日に「さくら日本株オープン」を設定して以来、私は自分の運用する全ファンドについて、全ての投資先とその比率、そして運用担当者としてのコメントを毎週欠かさず公表してきたが、アナライザーでは、もうひとつ投資家に寄り添う事を考えていた。
それはファンドのパンフレットに、自分自身の顔写真を名前付きで表示することだ。当時、投資信託のファンドマネージャーは、誰がやっているのかなど全く発表されておらず、その必要もない時代ではあった。ただ「投資を信じて託して貰う」のが投資信託だという強い信念があり、故にのちに「入門の金融 投資信託のしくみ」という本も書く(1998年6月)のだが、公明正大逃げも隠れもせず「私が全責任を持って運用しています」という意思表示も兼ねてA4見開き式のパンフレットのど真ん中に顔写真と略歴を表示することにした。
こられがために「顔が見えるファンドマネージャー」と呼ばれるようになるのだが、今考えると、あの時勢、よくぞ思い切ったものだと我ながら感心してしまう。ただ顔も見え、名前も発表し、全組入銘柄を投資比率も付けて毎週開示し、都度、コメントつけるまですれば、お客様にもご安心・ご納得頂けるものと考えていたからこそ、そこまで出来たのだと思う。あとは買うも売るも、或いは保有し続けるも、お客様ご自身でご判断頂けば良いと。
私の秘かな悪だくみ
実は私を感動の坩堝へと落とし込んでくれた北米出張は、予算などの制約もあり、なかなか定期的に行けるという社内ムードは醸成されなかった。アナライザー開発の話は前に進むものの、その辺りの問題に関してはどうも雲行きが怪しく、外資系からのリサーチ・レポートがあれば済むのだろうという社内ムードが強かった。そこで私が一計を講じたのが「投資対象を訪問調査済み先に限定する」という縛りを入れることである。大義はより運用責任を明確にすることであったが、本音は確実に運用の為なら米国出張が出来るようにすることだった。これはどうやら今でもファンドの目論見書に書いてあるようで、だからこそか、今では外国株式はひとつも入っていない。海外にまで企業調査に行けないのか、行きたくないのか、その真意はわからない。ただこの文言を目論見書に入れることにより、私自身の企業調査の範囲は無制限、少なくとも北米は担保させることが出来た。
ただ私に言わせてみれば、こんなことはファンドマネージャーとしては当たり前のことで、投資対象である企業に、一度も足を運ばず、財務や広報などを呼びつけて話を聞くだけなど以ての外、企業調査のうちに入るとは思えない。出来れば、工場や社食などにも入り込み、長い時間をそこで過ごしてみて初めて分かる企業の素顔というのがある。それを知らずして「○○株式会社は最高です!買いです!」なんて私はお客様に説明出来るものではない。
このファンドがあったからこそ凄い人達に生で出会えた
アナライザーはその後、派生商品として国際証券専用ファンドの「シナプス」、さくらフレンド証券専用ファンドの「ネオ」を送り出すことになるが、このファンド達があったからこそ、私はグローバル・インベスターの端くれに成れたと、今でも感謝しているし、とても思い入れの深いファンドとなっている。
またこのファンドがあったからこそ、今では時の人となったAmazonのジェフベソズ氏にもあっているし、エヌビディアのCEOジェン・スン・フアン氏などには、来日までして来社して頂ける関係になった。シスコのジョン・チェンバース氏、オラクルのラリー・エリソン氏、そうそうアップルのスティーブ・ジョブズ氏にも会うことが出来た。
また欧州へも足を延ばすようになり、ソフトバンクが買収したARMも訪問していたからこそ、何がどう行われている会社かということを正しく判断出来たので、あの買収発表の直後のストップ安に際しても、間違いのない落ち着いた判断が出来た。ドイツではポルシェ本社で未だ発表前のカイエンを見せて貰った。「日本人でカイエンを見たのはあなたが最初だよ」と言われて、妙に舞い上がったのを覚えている。
アナライザーの名前の由来
アナライザーとは分析者という意味だが、この名前をファンドに付けたいと思ったのは、実は私が宇宙戦艦ヤマトのど真ん中世代だったので、あのロボットのアナライザーの名前からパクったというのが真実だ。当初はパンフレットにもアナライザーの挿絵を使いたいと思ったが、著作権の問題で敢え無く没。なので、パンフレットには外人の横顔みたいなのが当初のデザインとなった。勿論、見開きの真ん中には私の顔写真が載っていたが・・・。
最後に、今は「三井住友・株式アナライザー・オープン」というのが正式名称となり、ファンドマネージャーの名前が公表されていないので、たぶん私も直接存じ上げない方が運用されているのだと思う。ただ、この外国株式ファンドが人気のご時勢に、ひと銘柄も米国株が入っていない現状を顧みるに、当初の設計者としては、名前は一緒だけど、全く違うファンドになってしまったと寂しく思う限りである。