30年間、ありとあらゆる災禍の中でマーケットと対峙してきた
1988年にファンドマネージャーとして産声を上げていますから、87年のブラックマンデーこそ他人事でしたが、その後の世の中の大きなイベント、つまり市場を揺るがした大きな出来事には全て正に当事者そのものとして関わってきました。
そんな中でも1番肝を冷やしたと言うか、正に頭の中が真っ白になったのが、2001年にアメリカで起こったアメリカ同時多発テロ事件と呼ばれた911事件です。
少し長くなりますが、何が起こって、ファンドマネージャーとしてどう対応したのか、記憶を辿ってお伝えしたいと思います。記憶が曖昧になっているところもあるかと思いますが、今でも忘れられない17年前の出来事を綴ってみたいと思います。
夜中の一本の電話から始まった
その日は何故かいつもよりも早くベッドに入ってしまっていたのですが、火曜日の夜の10時半過ぎだったと思います、部下からの1本の電話でそのドラマは始まりました。
「大島さん、遅くに申し訳ありません。でも、今たまたまCNNテレビを観て知ったのですが、ニューヨークのワールド・トレード・センター・ビルに大型旅客機が突っ込みました。それも2機。それだけじゃ無いんです。ペンタゴンにも一機突っ込んだようです。冗談に聞こえるかも知れませんが、すみませんが、是非テレビを付けて観てみて下さい!」
という内容でした。彼の声のトーンから、只事では無いということは容易に想像出来、急いでリビングのテレビを付けました。テレビを付けると、ちょうど2機目の飛行機がワールド・トレード・センター・ビルに突入する映像が流れていました。まるでハリウッド映画を観ているようでした。
でもそれは現実に起きている事件だったのです。キャスターがまるでヒステリーを起こしたように状況をがなり立てていました。
通い慣れた超高層ビルに旅客機が突入する異常な映像
アメリカ本土が大空襲を受けたなら、第三次世界大戦勃発か? いや、それならば戦闘機か爆撃機が来る筈だ。それに米軍が反撃している様子もない。テレビは国内の放送でも、ワールド・トレード・センター・ビルに突入する飛行機の映像を繰り返し放送していましたが、その最中、片方のタワーが崩壊しました。
「何なんだ、これは?」と思うその傍らで、当時のブッシュ大統領が「これはテロ事件だ」と声明を発表しました。映像を観ながら、正直なところ、頭の中は真っ白な状態になっていました。
起こった事実と、これがアメリカ本土を襲ったテロ事件だという事実は分かったのだけど、おおよそこの後、何がどうなるのかは想像すら出来なかったからです。
まずは「落ち着け、落ち着け」と自分に言い聞かせるのが精一杯で、しばし呆然とテレビの映像、何度も繰り返し映し出される旅客機がビルに突っ込む映像とビルが崩壊する映像、併せて様々な悲惨な光景を観続けていました。
自分が運用しているファンドのポジションは自宅のパソコンでも当時から確認出来ましたが、それを見て「どうすべき?」なんて、何も思い浮かびません。この刹那にそんなことを思いつく筈はありませんし、たとえ思いついたとしても、発注や取引をする術などもなく、当然、ニューヨークの証券会社の担当者の電話も繋がる筈がありませんでした。
当日から翌週月曜日まで、ニューヨーク証券取引所は休場となりました。
翌日は早朝5時には会社に居ました。ほかのファンドマネージャー達も続々と出社してくるのですが、当然何を出来るわけでもなく、ただただ「大変なことになったな」と声を掛け合うのが精一杯な感じで、パソコンを立ち上げて永遠と続くニュースを見たり、CNNテレビのニュースを観てはため息をついたりするばかりでした。
実は九死に一生を得ていたのかも
電話をくれた部下が会社に着くと彼は私に駆け寄りこう言いました。
「良かったですね、出張の予定を一週間ずらしておいて」と。
その時初めて気が付いたのですが、本当なら1機目の旅客機がタワーに突っ込んだ正にその時間、メリルリンチの米国株デスクのトレーダーと朝食を食べながら打ち合わせをしようと約束をしていたのです。丁度、隣のビルのカフェが待ち合わせ場所でした。ただ何故だかその予定を直前になって1週間後ろに変更していたのです。
もし当初の予定通りに出張に行っていたら、私も少なからず、あの災禍の中にいた筈です。ただ、「大島さんはついてますよ」と言われても、大して嬉しいとは思えませんでした。
モニターを消して、外に出よう。
その日、日経平均株価は当然のことながら寄付きから急落、当時10,000円前後を推移していたところで約700円の下落となりました。当然、ディーリングルームはまるでお通夜の様相。誰もがただモニターを見つめながら、下げ行く市場に術もなく、ため息ばかりを堪えているという感じでした。まるでガマの油のガマガエルの様相です。
私はそれまでの経験則から自分の配下の仲間たちにこう言いました。
「見ていても気分が滅入って判断が鈍るだけだし、どの道今日は動きようが無いから、モニターを消して、街の様子でも観察しに行こう」と。
これこそが、1988年から運用に携わり、バブル崩壊も、湾岸戦争も、山一證券の破綻に続く銀行の破綻なども、多くのショックや衝撃を見てきた者のサバイバル術なんです。ショックに遭遇した市場は当然にしてパニックを起こして急落します。それが1日で収まる場合もあれば、数日経っても動揺し続ける時もあります。
そんな時、モニターの前に座ったままで株価変動を凝視し続け、市場の混乱の中にドップリ浸かってしまっていると、間違いなく市場のパニックが乗り移って冷静な判断が出来なくなることを経験から学んできました。
ある程度落ち着いたところから手を打ちに行っても、決して遅くはありません。寧ろ右往左往すると、市場の動きの反対ばかりを追い掛けることになりかねません。
そこでチーム全体、資金繰りを担当する者だけを残し、モニターを消して外出するように命じました。当然、自ら率先してディーリングルームを後にしたのは言うまでもありません。
1週間後のニューヨークへ出張
1週間後にずらしておいた出張のスケジュールは、中止要請もありましたが「現地をこの目で見てこないと、投資家に説明できません」というのを理由に、米国出張に向かいました。
宿泊したホテルは38丁目にあり、グラウンド・ゼロからはそこそこ距離がある筈なのですが、ビルが燃えた後の刺激臭がマンハッタン全体を覆っていました。
グラウンド・ゼロを見た時の衝撃は今でも忘れません。正に摩天楼のように天高くそびえ立っていたツインタワーが、単なる瓦礫の山になっているのですから。正直思い出したくもありません。
ただ記憶に残っているのは、当時その近くにあったベライゾン・ワイヤレス社が、本社ビルから、窓というか、壁をぶち壊して通信ケーブルを外に垂らしている姿です。何としても通信だけは早期に確保しなければならないという同社の使命感が、かなり無茶苦茶な応急処置には見えましたが、通信をそうして確保していたのです。
「United We Stand」
いつも米国出張の時は、シリコンバレーやデトロイトのみならず、主要な投資先のある都市を回って企業訪問をして居ましたので、その時も同じように繰り出したのですが、当然と言えば当然なのかもしれませんが、どの企業に回っても、まずは私の見てきたニューヨークの状況を誰もが聞きたがり、そして何人もの人が、犠牲者と何らかの繋がりがあったことを知りました。
そして私がその出張を通じて強く感じたのは、当時の標語
「United We Stand」
に象徴される「団結した米国」でした。
ニューヨークの真反対の西海岸に居ても、ニューヨークは米国のひとつの象徴であり、そこが直撃でテロに襲われた。アメリカ本土が空襲されたという衝撃は、昨今の分裂気味の米国には感じられない「アメリカはひとつになった」というムードに強く包まれていたからです。
結局私の投資判断は大きくは変わりませんでした。すなわち「アメリカは大丈夫。かならず復興する。いやきっともっと強くなる」と感じられたからです。
ただ一方で、「きっとアメリカは弔い合戦をしないわけにはいかなくなるだろう」とも思いました。これが次の第二次湾岸戦争に繋がるのですが、事の是非とは別に、あの戦争はアメリカが崩れないためには大統領は決断せざるを得なかっただろうなと分析しています。
(こぼれ話)空港でズボンを脱がされる
余談ですが、NY行きのジャンボジェット(B747)に乗っていたのは、私を含めて乗客は僅か4人、クルーの方がその何倍もの16人とか乗っていた筈です。
ひとりのCAの方から「ご出張ですか?ご家族は心配されませんでした?」と声をかけて貰いましたが、「皆さん方こそ、同じですよね」と受け答えたのを覚えています。「空いているシートのどこに座っていただいても構いませんから」とも言われたのも、この時が最初で最後です。
驚いたのはニューヨークを離れる時、JFK空港だったか、ラガーディア空港だったかは記憶が無いのですが、ターミナルビルに入る外で、まず金属検査を受けさせられました。当然その周りには自動小銃を抱えた州兵が警備しており、人差し指が引き金に掛かっています。
まあ、セキュリティが厳しくなるのは当然だよなと思いつつ、両手を挙げて立つと、次にベルトを外せと指示されました。バックルのことかなと思うと、そうではなく、ベルトをズボンから抜いたうえで、ズボンのウェストボタンを外して、下着のところまで見せろというのです。それもまだターミナルビルに入る前の段階です。これには驚きました。勿論、自動小銃がこっち向いてますから、無抵抗のまま、されるがままに対応しました。
ターミナルビルに入ると、中はとてもガラーンとしていました。必要最低限の旅客しかいないからです。圧倒的に自動小銃を抱えた州兵の数の方が多いんです。正式なセキュリティー・ゲートを抜ける時、その向こう側には二人の州兵が居ました。
その2か月後に渡米した時は、その州兵たちも自動小銃をぶら下げただけになっていましたが、その時は引き金に人差し指を載せたまま、瞬時に撃てる構えでセキュリティー・ゲートの向こうに立っていました。あの緊張感は忘れられません。
ただ、一度中に入ってしまってから感じたことは「今、世界で一番安全な場所は、ここかも知れないな」という、何とも皮肉な想いでした。
全米、いや世界中を恐怖のどん底に落としたあのような事件は、もう2度と起きて欲しくないものだと思い続けています。