投信が売れないというが・・・
鶏と卵の議論に等しいが、今朝の日経新聞が一面で取り上げた昨今の「投信不振 迷うマネー」の問題の本質は、投信業界(販売会社を含む)だけにあるのではなく、消費者側にもあるのが事実だろう。どちらが鶏で卵なのか、要するに、「投信業界が新しい投信を作り続けるから消費者がそればかりを買う」のか、「消費者が買うから投信業界が新しい投信ばかりを作り続けるのか」、どっちが先かは一概には言い切れないということだ。
投資信託の仕組みそのものは、他の成業を持つ個人にとって理想的な投資対象であるというのは機会を見てあらためて話すとしても、もし消費者側が積極的に資産運用をしなくてはならないという意識を背景に自らが自分の運用目標に適した投信を選ぶ目を持っていれば、金融庁がダメ出しをする前に、投信業界自らが消費者の厳しい選択眼に適う商品を作り、そして販売をしてきた筈だ。
しかし残念ながら消費者側にその動きは、メディアが取り上げる程には、大きな奔流として現実にはみることは出来ない。ミクロ的な視点で見ればそうではないんだ、という動きが一部にあり、徐々に根付きつつあるのも事実ではあるが、マクロ的に大きく俯瞰すると、残念ながら消費者のマジョリティーは投信業界が薦める通りに投信を選び、買い、そして手放してきたし、それは今も続いている流れと言える。その行動のインセンティブは、収益至上主義の投信業界にしかない。
主婦が日々の買い物をする時の姿を思い浮かべてみると良い。数多種類のある野菜のひとつひとつに、目利きの方法から「今はこれ!」みたいな助言をくれるセールスはついていない。そしてどんな主婦だって、大根を一本買う時、少なくとも2,3本は手に取って自分の目で良し悪しを見極めようとしている。良い大根の見極め方を学校の授業で教わった記憶は、少なくとも私にはないが、特売になっている時でさえ、無造作に迷うことなく手近な大根を手に持ってレジに向かう主婦を見たことは無い。必ず自らの目で何かを基準に選んで一本持っていく。
その結果として何が起きてきたかと言えば、野菜業界の方で「売れる野菜」、すなわち主婦が手に取って買って行ってくれる野菜を店先に並べることへの腐心である。本来野菜は形も大きさも揃った状態で畑で出来上がるわけではない。にも拘わらず、スーパーの野菜売り場に並んでいる野菜は形もきれいだし、大きさも大体皆揃っているのは、それ以外の製品は出荷すらされずに処分されているからに他ならない。
子供の頃を思い出してみれば、八百屋の店先の大根には葉っぱがついていたし、人参は二本足で立ちそうな形のものも普通に売っていた。キュウリは真っ直ぐではなく、独特の弧を描いていたし、トマトや玉ねぎの大きさはバラバラだった。正にこれこそが消費者が自ら選んだ結果の野菜業界側の対応のあらわれだ。消費者の嗜好に合わせてきた結果ということだ。その為に、裏では無駄に廃棄されている野菜類があることは、ここでの議題にはそぐわないので割愛させて頂く。
こう考えてみると、「日本では学校できちんとした投資家教育が行われてこなかったからいけないんだ」という議論は、一見正しそうに聞こえてはいるが、問題の本質ではないことが何となく見えてくる。何故なら「良い大根の見極め方」は、やはり学校では教えていないからである。それは原因らしきものを探し、取り敢えず加害者と被害者ありきという構図を作ることが好きな日本人にありがちな世論形成の仕方であって、問題の本質の炙り出しには辿り着いていない。