【号外】2026年の年頭警鐘──ベネズエラで露呈した地政学×情報混線

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近年は「年賀状」という伝統的だった国民的習慣も薄らぎ、寧ろ、日付が新年に変わった途端に一斉にSNSを飛び交う「あけおめ~!ことよろ~!」などといったやり取りが主流になったが、いずれにしても、今年の新年お正月は穏やかに始まったかに見えた。しかし、現地時間1月3日(日本時間1月4日)にかけて、ベネズエラでの軍事行動と指導者拘束を示す情報が一斉に流れ、同時に『米国が一定期間、現地の秩序回復を主導する』趣旨の発言が伝えられたことで、穏やかな時間は一変した。ここで重要なのは、単なる“攻撃”の速報ではなく、①武力行使、②身柄拘束(法執行の体裁)、③暫定統治への関与という三点が、同一の出来事として束になって受け止められた点である。今年2026年もやはり地政学的リスク(Geopolitical Risk)が投資家を悩ませる大きなテーマとなることを確信させた。

「AI革命第二幕」という、とても大きく、確りした「右肩上がりのビジネス・トレンド」が厳然として存在する傍らで、投資家は昨年2025年以上に地政学的リスクについては気を配らないとならない1年となるのかも知れない。それには大きく二つの理由がある。ひとつは勿論「地政学的リスク(Geopolitical Risk)」そのものの影響力の大きさだ。もし万が一にも「第三次世界大戦」ともなれば、それこそ「資産運用」どころの騒ぎでは無くなるからだ。そしてもうひとつは、寧ろ個人的にはこちらの方を昨今は主に危惧しているとも言えるが、「未整理な情報」が飛び交い、また「偏向」や「誤解」、或いは「曲解」などが伝わることが、市場に不必要な混乱を齎すことだ。

それは何も昨年2025年の「新語・流行語大賞」トップ10に選ばれるほど話題になった「オールドメディア」だけの話ではなく、当然、SNSやネットの情報にも種々雑多なものが放り込まれているからだ。寧ろAIを使って、意図的に作られた「フェイク・ニュース」、或いはそれらを元にした国家レベルの情報工作が疑われる事例まで加味すると、その相乗効果も手伝って、「本質」を見極めるのは極めて難しい時代になってしまったと思われる。情報は生まれる段階から、作為・切り取り・編集が混入しやすい上に、リコメンデーションによる「フィルター効果」「エコーチェンバー効果」などが、よりそれを”煽り”たてるとも言える。

そこで今回は、新年早々「号外」という形で、プレミアム・レポートの会員の方々のみならず、無料レポートをご登録頂いている方々にも読んで頂ける形で、年明け早々に飛び込んできた「ベネズエラ問題」を丁寧に解きほぐしてみたい。プレミアム・レポートの会員の方々には、「いつもの論点整理」とお分かり頂けるものと思うが、無料レポートの読者の方々には、プレミアム・レポートのある一面を感じて頂けるのではないかとも期待している。本年2026年も、皆さまの判断の軸がぶれないよう、丁寧な論点整理を積み重ねていく。ファンドガレージの「プレミアム・レポート」ならびに「無料レポート」を、引き続きお読み頂ければ幸いである。

米国ベネズエラ介入の衝撃──国際秩序・米国内政治・台湾海峡を貫く構造

起きたことの定義──“三点セット”として見ないと誤読する

今回のベネズエラをめぐる事案は、ニュースの見出しだけを追うほど、解釈が歪みやすい。なぜなら、多くの論評が「好きな要素を一つだけ抜き出して、それを全体の説明にしてしまう」からである。たとえば、「独裁者の排除」「逮捕劇」「資源の奪い合い」「国際法違反」といった単語が、それぞれ単体で強い物語を持っている。しかし本件は、単語で切り分けてしまった瞬間に、因果と構造が崩れるタイプの出来事だ。

本稿では、まず出来事を次の“三点セット”として固定する。第一に、①武力行使(攻撃)があったこと。第二に、②身柄拘束が「法執行の体裁」で説明されていること。第三に、③「米国が当面ベネズエラを運営する」という含意が付随していること。重要なのは、これらは別々の話ではなく、実務上は一体のパッケージになっている、という点である。なぜ一体なのか。理屈は単純で、①武力行使(攻撃)を行った時点で③「米国が当面ベネズエラを運営する」ことが不可避になり得るからである。国家の中枢に武力で介入し、指導者を拘束するという行為は、当事国の行政・治安・軍・官僚機構に「空白」または「分断」を生む。その瞬間から、現地は“政治の話”ではなく“治安の話”になる。治安が崩れれば、物理インフラ(電力・港・パイプライン)も止まり、資金決済も滞り、外交的な承認闘争が激化し、報復や略奪が起きる。つまり「逮捕したので終わり」にはならない。撤収すれば無政府状態を招く、残れば統治責任が生まれる。ここに③が立ち上がってくる。

同時に、②の「法執行の体裁」は偶然ではない。武力行使を行う以上、米国内の政治言語として、そして国際社会に向けた説明言語として、単なる戦争ではなく「犯罪対策」「司法の執行」という枠を前面に出す誘因が強い。国内向けには、治安・麻薬・組織犯罪の話は共感を取りやすい。対外的にも「政権転覆」より「法執行」の方が、正当化の入口を作りやすい。したがって本件は、軍事・司法・統治という異なる制度領域が、意図的に重ね合わされている可能性が高い。ここを見落として、「石油だけ」「麻薬だけ」「国際法だけ」で説明すると、必ず残余が出る。その残余こそが、実際の政策目的であり、実装上の制約である。

さらに、③「米国が当面ベネズエラを運営する」に付随して語られる「投資」や「インフラ再建」は、単なる儲け話として片付けられがちだが、実務的には別の意味を持つ。統治や治安維持にはコストがかかる。短期でも兵站、治安部隊、行政の代替機能、国際調整が必要になる。そこで「再建投資」を語ることは、①②③を“成功物語”としてつなぎ、国内に説明し、同盟国や周辺国に出口イメージを提示する役割を持ちうる。要するに、再建投資は経済目的である以前に、政治目的(出口戦略)でもある。だからこそ、石油利権一本足の解釈は、直感的には分かりやすくても、構造としては薄い。

ここまでを踏まえると、今回の論点は「是か非か」以前に、「何をやった出来事として定義するか」にある。世界の反応が割れるのも、国際法が争点化するのも、日本政府が言葉を選ぶのも、日本のオールドメディアが“人格→単一動機→結末”で物語化しやすいのも、すべてこの定義の段階で分岐が起きるからである。そこで、まず“評価の分裂はフレームの分裂である”ことを押さえ、その上で国際法の論点、日本政府と国内世論の言語、そして最重要としてトランプ政権がこの「三点セット」に踏み込んだ設計思想を、順に構造化してみよう。

世界の反応が割れる理由──善悪ではなく“フレーム”が違う

本件に対する国際社会の反応が割れたのは、「米国の行動が正しかったかどうか」という道徳判断が先に立ったからではない。もっと正確に言えば、各国・各勢力が、そもそもこの出来事を“何の出来事として扱うか”という定義の段階で分岐したからだ。前段で固定した三点セット──①武力行使、②身柄拘束(法執行の体裁)、③当面の運営(暫定統治の含意)──は、どれを主語に置くかで評価軸がまるで変わる。世界の分裂は、善悪の分裂というより、出来事の主語の分裂だ。象徴的なのは、反応の言語そのものだ。ある国は本件を「独裁の終焉」「解放の行為」として語り、別の国は「主権侵害」「危険な先例」として語る。どちらが“真相”に近いという話ではなく、最初にどのフレームで切り取るかが違っている。価値の回復として語れば、焦点は「誰が倒れたか」「何が変わるか」に寄る。秩序の侵食として語れば、焦点は「どこまで許されるのか」「模倣されないか」に寄る。同じ出来事が、同時に別の物語として立ち上がってしまう。

この分岐を生む根は深い。第一に、ラテンアメリカは歴史的に「主権」と「外部介入」に敏感だ。米国が“秩序回復”を掲げるほど、地域側は「誰が秩序を定義するのか」という警戒を強めやすい。第二に、大国間競争の文脈が上書きされる。中国やロシアにとって本件は、ベネズエラという一国の問題ではなく、「勢力圏」「介入の正当化」「国際秩序の先例」をめぐる争点として映る。だから反応は原理主義的になり、言葉が硬くなる。第三に、“法執行”という語り口が、受け手によって真逆に働く。支持する側には「戦争ではなく犯罪対策」として通りやすいが、批判する側には「武力行使を合法に見せるレトリック」として映る。法執行の体裁は橋にもなるが、火種にもなる

ここに、昨今顕著になっている保守・リベラルのメディア的分断が重なる保守寄りの論調は、主語を「治安」「麻薬」「国家の強制力」「抑止」に置きやすい。すると焦点は“迅速さ”や“実効性”になり、一定期間の運営も「空白を埋める管理」として語られがちだ。リベラル寄りの論調は、主語を「国連憲章」「主権」「先例」「占領化リスク」に置きやすい。すると焦点は“正当化の条件”や“制度の劣化”になり、運営の含意は「統治責任の発生」として重く扱われる。どちらも一理はあるが、主語が違う限り、議論は噛み合いにくい。日本の言論空間が混乱しやすいのは、この“主語のすれ違い”を整理しないまま、断片だけを輸入してしまうからだ。

だから、次に必要なのは「どのフレームが正しいか」を即断することではない。フレーム同士が衝突する焦点──国際法、主権、例外の条件、そして運営の含意──を、争点として精密に並べ直す作業が先になる。それをせずに本件を語ると、好き嫌いとイメージと陣営論に流され、最も重要な部分、つまり「国際秩序の摩耗がどこで起きるのか」という設計論が見えなくなる

国際法の争点整理──「国際法違反」と言うなら、どこが論点か

日本の報道では、本件に対して「国際法違反」という言葉が先に立ちやすい。ただ、この言い方は便利な反面、議論を雑にする。なぜなら、国際法は“気持ちのラベル”ではなく、条文と慣行と判例的積み重ねの上に、例外条件と解釈が乗る体系だからだ。違反かどうかは結論であって、先に置くべきは「何が争点になっているか」だ。そこで、その争点を読者が自力で追える形に整える。結論を押し付ける意図はない。

まず大枠は単純で、国際秩序の基本原則は「武力行使の禁止」だ。国家の領土保全や政治的独立に対する武力による威嚇または行使は、原則として許されない。ここが出発点になる。では例外は何か。一般に挙げられるのは二つで、国連安保理による授権(集団安全保障)と、自衛権だ。多くの論争は、この例外のどこに乗るのか、あるいは乗れないのか、という形で起きる。

安保理授権が明確でない場合、次に問題になるのは自衛権だ。ただし自衛権も万能ではない。自衛権が国際的に受け入れられるためには、少なくとも「武力攻撃が発生した、または差し迫っている」といった要件に加え、必要性や均衡性が問われる。ここで本件が難しくなるのは、トランプ政権側が前面に出す「麻薬対策」「犯罪対策」「テロ対策」という言葉が、国際法上の“武力攻撃”の概念とどこまで接続出来るかが、まさに争点になるからだ。国内政治の言語としては強いが、国際法の言語としてはハードルが上がる。だからこそ、議論が割れる。

次に出てくるのが「同意(招請)」の論点だ。もし当事国政府が外国軍の介入を要請し、その同意が有効だと評価されるなら、それは武力行使の違法性を緩和しうる。だが本件では、ここが最も政治的になる。なぜなら「誰が正統な政府か」という承認問題に直結するからだ。正統性が争われる状況では、同意の根拠そのものが揺れる。しかも今回のように“指導者拘束”が中心に置かれると、同意の話は一気に「政権転覆の合法化ではないか」という疑念に触れやすくなる。

さらに重要なのは、②の「身柄拘束(法執行の体裁)」が、国際法上の議論を簡単にはしてくれない点だ。刑事訴追が存在すること自体は、国内法の枠では手続として意味を持つ。しかし他国領域での身柄確保は、通常は当該国の協力や同意が前提になる。そこを飛ばして武力で身柄を確保すれば、「逮捕」ではなく「越境の武力行使」に見える。ここが批判側の最も強い論点になりやすいし、逆に擁護側はこの部分を「特殊な前例」「麻薬国家の例外」として説明しようとする。だが、例外を例外として認めれば認めるほど、結局は「先例化」の議論が立ち上がる。国連が警戒するのは、まさにそこだ。

そして最後に、③の「一定期間、米国が運営する」という含意が、法の論点をさらに重くする。もし実態として治安や行政を担うなら、これは単なる作戦や逮捕ではなく、統治の問題になる。統治には責任が伴う。秩序維持の名目であっても、長期化すれば占領に近い実態を帯び、住民保護、行政運営、インフラ維持といった統治責任が問われる。ここまで来ると、議論は「違法か合法か」の二択ではなく、「どの枠組みのどの条件を満たし、どの条件が欠けているのか」という精密な検討に移る。結論を急ぐほど、議論は政治宣伝に引きずられる。整理すると、「国際法違反」という一言の背後には、少なくとも四つの論点が折り重なっている。武力行使禁止の原則、例外としての自衛権や授権、同意(招請)と正統政府の問題、そして越境の法執行と統治責任の境界だ。本件は、この四つが同時に動いているからこそ、世界の反応が割れ、国内メディアが単純化しやすくなる。そこで、こうした法と秩序の話を踏まえたうえで、日本政府がなぜ「価値」と「秩序」を同時に語らざるを得ないのか、その言葉選びの構造を整理してみよう。

日本政府の立ち位置──価値(民主)と秩序(国際法)を同時に語る必然

日本政府の対外発信は、ときに「歯切れが悪い」と評されがちだ。しかし本件のように、武力行使と法執行と統治の含意が一体化した事案では、日本政府が明確に二つの軸を同時に持たざるを得ない。ひとつは、民主主義や人権といった価値の軸だ。もうひとつは、国連憲章と国際法秩序というルールの軸だ。この二本立てを外すと、日本の立ち位置そのものが崩れる。つまり曖昧なのではなく、矛盾しない範囲で両方を立てることが、日本にとって最も合理的な選択になる。

価値の軸から見れば、ベネズエラの政治体制や統治の実態を問題視する見方は根強い。選挙の正統性、反体制派の扱い、経済崩壊と国民流出、治安の荒廃。こうした論点は、国際社会でも長く共有されてきた。日本政府も、この「民主的移行」や「国民の意思の尊重」という言葉を使うことで、問題の所在を曖昧にしない。ただし、ここで日本が踏み込めるのは“価値の表明”までで、武力行使の追認まではいかない。ここが次の軸、秩序の軸につながる。

秩序の軸、つまり国際法秩序の尊重は、日本外交にとって単なる理念ではない。日本は、戦後の安全保障を同盟と国際秩序の上に組み立ててきた国家だ。自国が他国の主権や領土保全を軽んじる側に立つと、最終的に跳ね返ってくる。とりわけ台湾海峡を含む東アジアで、現状変更を抑止したいという国益がある以上、「国際法は状況次第で軽くなる」という空気を許容できない。だから日本政府は、本件がどう評価されるべきかを語る以前に、まず“国際法と国連憲章の枠組み”を言葉として置く。ここは同盟国が相手でも譲れない最低ラインになる。

さらに実務の軸がある。邦人保護、在外公館の危機対応、情報収集、現地での安全確保。政治の善悪とは別に、現実の危機が動いている以上、政府は「何が正しいか」を語るだけでは足りない。状況が流動化するとき、政府発信は余計な挑発になり得るし、逆に過度に断定すると後手に回る。日本政府が「深刻な懸念」「注視」「自制」「対話」といった言葉を多用するのは、逃げではなく、危機対応の言語でもある。ここを読み違えると、政府発信の意図が誤解される。

要するに、日本政府の言語は三層に分かれる。第一に価値(民主的移行への支持)。第二に秩序(国際法の尊重)。第三に実務(邦人保護と安定化)。この三層を同時に満たす文章は、どうしても“慎重”に見える。しかし、それは日本が置かれた地政学と同盟構造の中では必然だ。むしろ本件のようなケースで日本がどちらか一方に振り切れるなら、それは外交の言語として危うい。ならば、この日本政府の「二本柱+実務」という構造が、国内世論とオールドメディアの言語とどう噛み合わず、どのように単純化が増殖するのかを整理してみよう。

日本の世論とオールドメディア──「人物像→単一動機→結末」の量産装置

日本の世論空間では、トランプ大統領に対して「自分勝手で商売優先の頑固オヤジ」という人物像が先に立ちやすい。ここで大事なのは、その人物像が正しいかどうかではない。その人物像が一度インストールされると、以後に入ってくる出来事は、人物像に整合する物語へと自動的に再編集される、という点だ。出来事が人物像の証拠として使われ、人物像が出来事の解釈装置として働く。この循環が始まると、政策の設計や制約の話は消える。この循環が最も分かりやすい形で現れるのが、「単一動機」化だ。本件で言えば「麻薬対策は建前、真の狙いは石油利権」という物語がそれに当たる。もちろん石油が無関係だと言う必要はない。問題は、石油“だけ”で説明してしまうことだ。国家行動は通常、国内政治、外交、軍事、司法、経済が同時に動く“束”として設計される。束で説明できない解釈は、たいてい物語としては分かりやすいが、現実の実装とは噛み合わない。にもかかわらず、テレビや一般メディアでは、束を束のまま語ると視聴者が離れる。結果として「儲け主義のトランプ大統領」×「石油利権」という、理解コストが低い組み合わせが量産される。

もう一つの増殖条件は、日本のコメント産業の構造だ。番組は短時間で“結論めいたもの”を欲しがる。すると、複雑な国際政治を専門としないコメンテーターでも語れるテーマ、つまり資源、貿易、景気の話へ引き寄せられる。ここでは数字が出せるし、見通しも語れる。しかし安全保障や国際法の論点は、前提の説明に時間がかかる。だから「石油利権→中国反発→米中対立→世界不況」という一本道が選ばれやすい。論理が直線的で、番組の時間尺に合うからだ。だが、こうした一本道は、いくつかの重要な論点を切り落とす。第一に、フェンタニルを含む麻薬問題が米国内政治で占める比重だ。これは“口実”で済むほど小さくない。第二に、西半球の地政学、つまり中露の影響圏をどう扱うかという戦略の話だ。第三に、法執行の体裁と実際の武力行使、そして統治の含意が一体化することで生じる「撤収できない構造」だ。これらを落としたまま石油だけを主語にすると、政策の全体像は読めなくなる。読めなくなると、次に起きることも当てにくくなる。つまり、単一動機の物語は分かりやすいが、予測能力が低い

ここで投資家側が持つべき防御は、対立陣営のどちらに肩入れするかではない。「その説明は束になっているか」という一点に尽きる。国内政治(治安・麻薬・移民)、地政学(中露との角逐)、法制度(国際法の争点)、経済(資源・制裁・決済)。最低でもこの四つの箱が同時に見えていない解説は、たいてい“番組向けに整形された物語”だ。物語を見抜ければ、人物像に引っ張られずに、構造として理解できる。そこで次に、世論やメディアの単純化とは別に、ベネズエラ国民の反応がなぜ「国外の歓喜」として見えやすいのか、そして国内の複雑さがどこにあるのかを整理する。

ベネズエラ国民の反応──国外の歓喜、国内の沈黙、そして分断

「ベネズエラ国民は喜んでいる」という報じられ方には、事実として観測できる面がある一方で、情報としての偏りも含まれやすい。ここを丁寧にほどかないと、国民感情を一枚岩に見誤り、以後の安定化シナリオを過大評価してしまう。

まず、国外での歓喜が可視化されやすいのは自然だ。国外にいる人々は、生活崩壊や治安悪化の中で国を離れ、体制への怨嗟や喪失感を抱えたまま暮らしてきた層が多い。彼らにとって指導者拘束は、政治イベントというより、人生の損失と結び付いた「決着」に見える。しかも国外では、歓喜を表明することの身体的リスクが小さい。集会やデモ、SNS発信が可能であり、メディアも撮りやすい。結果として「国外の祝賀」が映像になり、ニュースとして流通しやすくなる。これは、実態の反映であると同時に、可視化の構造でもある。一方、国内の反応は同じようには見えない。最大の理由は、恐怖と不確実性だ。体制が揺らいだ局面では、誰が勝者になるかが見えないからだ。治安部隊がどこまで掌握されているのか、武装組織がどう動くのか、報復が起きるのか、行政が機能するのか、生活インフラは持つのか。こうした不確実性の中で、国内の一般市民が「喜び」を表に出すのは危険になりやすい。さらに言えば、国内には現実的な依存もある。公務員、国営企業、配給や補助金、地域のボス的な統制など、生活が政治構造に埋め込まれている人々は少なくない。そこに突然「体制が変わった」といっても、明日から現金が回るわけでも、食料が増えるわけでもない。希望はあっても、まず先に来るのは「不安」だ。

もうひとつ重要なのは、ベネズエラ社会がそもそも分断を抱えている点だ。反体制派が一枚岩ではないのと同様、体制支持側も一枚岩ではない。忠誠の度合い、利害、地域、武装組織との関係、軍・警察内部の派閥、官僚機構の生存戦略が絡む。だから「国民が喜んでいる」という言い方は、政治的には魅力的でも、社会の解像度としては粗い。喜びがあるとすれば、それは多層であり、同時に恐怖もあり、様子見もある。国内外で見える反応の差は、価値観の差というより、置かれた環境の差が生む。

ここで本件の三点セットに話を戻すと、③の「当面の運営」が持つ意味が、国民感情の振れを決める。短期の秩序維持が実現し、生活インフラが保たれ、報復が抑えられ、最低限の行政サービスが回るなら、人々は政治的判断をする余地を取り戻す。逆に、治安が崩れ、略奪が起き、武装集団が跋扈し、生活がさらに悪化するなら、「体制の変更」そのものへの支持は一気に揺らぐ。国民の歓喜を本物にするのは、理念ではなく、現実の安全と生活だ。ここを押さえずに「国民は喜んでいる」と言い切る解説は、結局のところ、次に起こり得る混乱を見落とすことになるだろう。

続いては、この生活と治安の現実を踏まえた上で、最も重要な問いに入る。なぜトランプ政権は、①武力行使、②身柄拘束、③当面の運営という「撤収できない形」に踏み込んだのか。衝動ではなく、利権一本足でもないとすれば、そこにはどんな設計思想があったのか。ここを整理しないと、以後の国際法論も、日本の論調批判も、台湾海峡への波及論も、すべて上滑りになる。

最重要:トランプ政権はなぜ踏み込んだのか──“束”としての設計で読む

本件を理解する鍵は、動機を単線化しないことにある。「石油利権が狙いだった」「麻薬対策が狙いだった」といった説明は、部分としては当たり得るが、全体としては足りない。国家行動は通常、国内政治、外交・地政学、軍事、司法、経済が同時に動く“束”として設計される。むしろ、この束のどれか一つが欠けると、実行の正当化も、持続可能性も、出口も作れない。トランプ政権が無能で衝動的ではないという認識に立つなら、なおさら束で読むべきだ。

第一に、国内政治の束がある。米国の政治は、治安と麻薬に敏感だ。とりわけフェンタニルを含む薬物問題は、単なる犯罪統計ではなく、社会の疲弊と死亡の現実として扱われている。ここに「国境」「移民」「ギャング」「司法の厳格化」が連動する。政権が②の身柄拘束を“法執行”として語るのは、国内政治の言語として合理的だ。戦争のための戦争ではなく、犯罪国家に対する司法の執行、という形にできれば、支持を得やすく、反対派も「犯罪者を守るのか」という形で圧力を受ける。ここは冷酷に言えば、正当化のための設計であり、同時に政権の中核テーマの延長線でもある。

第二に、西半球の地政学という束がある。ベネズエラは、資源国であると同時に、対外債務や制裁の構造の中で、中国やロシアとの関係が取り沙汰されやすい。米国から見れば、これは中東や東欧の問題ではなく、自国の裏庭に近い領域での影響圏の話になる。米国の対外戦略が、同盟の強化や抑止の再構築に向かう局面で、西半球で「反米の拠点」が固定化されるのは好ましくない。ここに、単純な石油利権では説明できない動機が乗る。秩序の維持、影響圏の整理、対中露の牽制。これらは大国政治の言語であり、米国内の支持者に直截には響かないが、国家戦略としては無視できない。

第三に、軍事・作戦論の束がある。ここまでで繰り返してきた通り、①を行った瞬間に「撤収できない構造」が発生する。武力で中枢に介入し、指導者を拘束するなら、治安の空白と報復の連鎖が起きやすい。つまり、作戦の成否は「拘束できたか」ではなく、「その翌日を設計できているか」で決まる。ここで③の“当面の運営”が出てくる。これは理想ではなく、作戦が引き起こす現実のリスクに対する最低限の備えとして現れる。もし政権が本当に衝動的なら、この③の言葉は出てこないはずだ。③を宣言するということは、少なくとも「空白をどう埋めるか」を意識しているということでもある。

第四に、司法の束がある。②を“逮捕”として語ることで、行為を「戦争」ではなく「法の執行」に寄せられる。これは国内向けの正当化だけではない。政権内部の意思決定においても、司法の枠は「手続の物語」を提供する。誰が敵で、なぜ排除され、次に何が行われるのか。その物語がなければ、軍事は軍事として孤立し、同盟国も距離を置き、国内も分裂する。法執行の体裁は、賛否は別として、束を一つに結び付ける接着剤として機能する。

第五に、経済・資源の束がある。ここで初めて石油が本格的に意味を持つ。石油は「利権」以前に、成功物語と出口戦略の材料になる。統治や治安維持にはコストがかかる。財政支出だけで支えるのか、国際機関や同盟国の協力を引き出すのか、現地の産業を再稼働させて自走させるのか。ここで資源は、回収手段でもあり、国民に示す再建の果実でもあり、国際社会に示す“安定化の見返り”でもある。だから石油が語られること自体は不自然ではない。ただし、それを「真の狙い」と単線化すると、①②③という高リスクの実装と釣り合わない。高リスクを取る理由は、資源だけでは説明しきれない。資源は束の一要素として置くのが自然だ。

ここまでをまとめると、トランプ政権の意思決定は、少なくとも五つの束、すなわち国内政治(治安・麻薬・国境)、地政学(対中露・西半球)、作戦論(空白回避と安定化)、司法(法執行の物語)、経済(再建と出口)を同時に成立させようとしたものとして読むのが妥当になる。そしてこの束の読み方は、個々の解説者の好き嫌いと独立している。人格批判でも、利権決めつけでもなく、政策設計としての整合性で見ているからだ。もちろん、束で設計したから成功するとは限らない。束を大きくすればするほど、摩擦点も増える。国際法上の正当化、同盟国の支持、現地の治安、統治の長期化、国内の反発、資源開発の不確実性。これらはすべて、束の裏側にあるコストだ。だからこそ、この束の政治が、国際秩序の摩耗という形で台湾海峡にどう影を落とし得るのか、そして世界経済にどの経路で効いてくるのかを、法理と現実を分けて整理することが出来る。

台湾海峡と世界経済──正当化は成立しないが、摩耗と宣伝は確実に効く

本件が中国の台湾侵攻を「正当化」しないか、という懸念は、論点を二つに分けて扱う必要がある。第一に法理の話としては、「他国がルールを破ったから、自国も破ってよい」という理屈は正当化にならない。国際法は“違反の連鎖を免罪する装置”ではなく、違反があれば本来は非難と是正が積み上がる設計だ。したがって、仮に中国が「米国も他国の主権を侵した」と主張しても、それは法の世界では免罪符にならない。

だが第二に現実政治の話としては、このロジックは「宣伝」としては極めて使い勝手がいい。国連側が「危険な先例」と警告し、中国が「主権侵害」「国際法違反」と位置づけるのは、まさにこの宣伝効果を見越した反応だ。相手の行為を“秩序破壊の証拠”として固定できれば、台湾をめぐる既存の主張――「台湾は内政問題」「外部勢力が不当に介入している」――の上に、「米国はダブルスタンダードだ」という上塗りができる。ここで重要なのは、宣伝がそのまま侵攻の意思決定を生むわけではないという点だ。侵攻の意思決定は、成功確率とコストで決まる。しかし宣伝は、その計算を狂わせるノイズとして働く。第三国の認知を揺らし、同盟の結束に疑心暗鬼を混ぜ、グレーゾーンの行動を“正当化っぽく見せる”空気を作る。秩序の摩耗が怖いのは、全面戦争を正当化するからではなく、平時の境界をじわじわ溶かし、偶発と誤算を増やすからだ。

ここで、「米国は沈黙を守っていた」と見える局面があった、という指摘に接続する。結論から言えば、沈黙していたとしても、それは“口”であって、“手”が止まっていたことを意味しない。台湾海峡や南西諸島周辺の抑止は、声明文の語調より、実際にどの戦力がどこへ動き、どんな間合いで相手の自由度を削ったかで決まる局面が増えている。言葉で相手を追い詰めれば、相手は国内向けに「引けない」姿勢を取らざるを得なくなる。そこで、あえて言葉を抑え、運用で「ここから先は採算が合わない」と体感させる。これは弱腰ではなく、むしろ実務的な抑止の型だ。

実際、テレビ報道の範囲でも、その型が映像として可視化されている。中国側で空母遼寧の動きが注目され、沖縄周辺の海峡を抜けて公海側へ出たと伝えられる局面で、米側も第七艦隊の空母打撃群が北上して圧をかける形が報じられた。さらに、空母が横須賀に入港したこと自体がニュースになるのは、単なる“帰港”ではないからだ。横須賀は政治的な意味を帯びた拠点であり、空母の所在がそこに固定されること自体が、同盟国への安心供与であり、相手への即応性の誇示になる。抑止は相手の成功確率を下げる行為であり、空母の位置情報ほど分かりやすい外部可視シグナルはない。同じ文脈で、強襲揚陸艦がベトナムのダナンに入港したといった報道も、見方次第で意味が変わる。表向きは友好訪問の体裁だが、抑止の文脈では「東シナ海・太平洋側だけではなく、南側でも連携と運用の選択肢を広げる」という含意を持ち得る。中国にとって南シナ海は、海洋権益と軍事拠点を連結する“背骨”に近い。そこへ米側が艦艇を寄せ、地域の関係構築を示すことは、正面衝突で相手を辱めるのではなく、相手が最も嫌がる「連鎖」を静かに作る動きになる。口で騒がず、運用で圧をかける、という設計と整合的だ。

ただし、この型は万能ではない。運用による抑止は、相手の挑発を止める一方で、「どこまでやれるか」を試す探り合いも誘発する。グレーゾーン行動が増え、接近や妨害、危険な飛行や航行が積み上がるほど、偶発と誤算の確率は上がる。穏やかな2026年になるかどうかは、善意や声明ではなく、この偶発リスクをどれだけ管理できるかにかかっている。外部可視シグナルとして見るべきは、演習の回数そのものより、接近の距離、妨害の強度、共同運用の増え方、そして空母・強襲揚陸艦といった“重い駒”が、どのタイミングでどこに置かれるかという運用の質だ。

世界経済への影響も、同じく「物理供給」より先に「リスク・プレミアム」が効く。ベネズエラは資源国であり、米国側が「当面運営する」「米企業がインフラに投資する」といった含意まで語れば、将来の供給期待が議論される一方、短期には制裁、拿捕、航行リスク、保険料、決済の摩擦が先に立ちやすい。特に中国がベネズエラ産原油の重要な買い手であるという見方が広がるほど、「供給が止まるか」以上に「どのルートで、誰が、どの条件で買えるのか」という条件闘争が価格に影を落とす。これがエネルギーの話の第一層だ。

第二層は、米中対立の“閾値”をどう動かすかという話になる。日本の評論空間では「石油利権が狙い→中国反発→米中対立激化→世界不況」という直線が語られやすいが、これは説明として分かりやすい反面、政策実装の現実とは噛み合いにくい。米中対立が貿易戦争として再燃するかどうかは、単一の事件で決まるというより、複数の摩擦が積み上がり、政治が「引けない」状態に入ったときに閾値を超える。本件は、その摩擦を一つ追加する可能性がある、という位置づけが現実的だ。だから「即・世界不況」と短絡するのは雑だが、「地政学リスク・プレミアムを上振れさせる要因が増える」という評価は妥当だ。

結局、ここでの結論は単純になる。中国が台湾侵攻を“法的に”正当化できるわけではない。だが“政治的に”米国の行為を素材として宣伝し、秩序の摩耗を梃子にグレーゾーンの強度を上げる余地は広がる。そして米国は、言葉で大声を出すより、運用で相手の計算式を変える型を取り得る。だから2026年の地政学リスクを見積もる上で重要なのは、道徳的断罪の強さでも、陰謀論的な単線説明でもない。宣伝がどの程度第三国の認知を揺らすか、グレーゾーンの運用がどの程度偶発リスクを増やすか、そして抑止の運用が相手の成功確率をどれだけ下げられるか――この三つの“運用の現実”で測るのが妥当だ。

補論 日経社説(1月5日)が提示した「秩序フレーム」の強さと、その欠落

ここまで「日本のオールドメディアは、人物像→単一動機→結末、という型で物語を量産しやすい」と整理してきたが、今朝の日経新聞の社説(2026年1月5日付)は、その“具体例”として読む価値がある。なぜなら、この社説は、論点の立て方そのものが、今後の日本の論調を規定していく可能性が高いからだ。

まず社説の骨格は明快だ。

米国は「麻薬流入を止める」と主張して大規模攻撃に踏み切り、マドゥロ氏を拘束・移送した。しかし国連決議もなく、他国領土で武力行使を行った以上、国際法上の正当性を欠く疑いが強い。こうした手法が許されれば、中国の台湾威圧やロシアの侵略を認めることになりかねず、国際秩序の瓦解を助長する。さらにトランプ大統領が「我々が運営する」と述べた点は、イラク・アフガニスタンの失敗を想起させる。米国は中南米への軍事介入を繰り返してきた歴史があり、パナマ侵攻になぞらえる向きもある。ただ当時と違い、いまの米国には自由な国際秩序を主導する意思が見えない

という流れだ。

この社説が日本国内で影響力を持ちやすい理由は、主語を「秩序」に固定しているからだ。人物像や経済利害ではなく、国際秩序の維持に焦点を置くと、論点は一気に通りが良くなる。「国際法違反かもしれない」「先例になる」「秩序が壊れる」は、視聴者にとって理解コストが低く、かつ倫理的にも“反論しづらい言葉”として機能する。だから、この社説の型は今後、各社の番組やコメンタリーに転写されやすい。

ただし、社説としての強さと引き換えに、議論が薄くなっている部分もはっきりある。最初に指摘すべきは、「国際法上の正当性を欠く疑いが強い」と断じながら、どの論点が争点で、どこが“決定打”なのかが十分に展開されていない点だ。武力行使禁止の原則を出すのは正しい。しかし本件は、前段までで整理した通り、武力行使、越境の身柄拘束(法執行の体裁)、暫定運営の含意が束になっている。ならば、どの束がどの法概念に接触し、例外(自衛権・安保理授権・同意)との関係で何が欠けているのかを、社説は本来もう一段掘る必要がある。ここを省くと、「国際法違反」という結論だけが独り歩きし、読者は“どこが争点か”を学べないまま、気分のラベルとして消費してしまう。

次に、社説が「トランプ大統領が石油利権への野心を隠さなかった」と書く部分は、まさに日本の言論が好きな“単一動機化”へ滑り込みやすい。石油が要素として絡むこと自体は不自然ではない。だが、石油利権が主要動機だと強く匂わせるなら、なぜ「①武力行使+②身柄拘束+③運営」という、撤収できない高リスクの形を選ぶ必要があったのか、の説明が要る。石油だけでは割に合わない。この割の合わなさを埋めるのは、国内政治(治安・麻薬・移民)、西半球地政学(対中露)、そして“法執行の物語”による正当化の束だ。ところが社説は、そこをほぼ語らずに「大国の身勝手」とまとめてしまう。社説の機能として断罪はあり得るが、読者の理解を深めるという点では、ここが薄い。

三つ目に、社説は「秩序を壊す先例」という重大論点を提示しながら、その“先例化のメカニズム”を精密には描いていない。中国が台湾を正当化するか、という疑問に直結するが、ここは「正当化は成立しない(法理)」と「宣伝には使える(現実政治)」を分けなければいけない。社説はこの区別を曖昧にしたまま、「認めることになりかねない」と一気に飛ぶ。結果として、読者は「じゃあ米国がやった瞬間、台湾有事は不可避なのか」という短絡と、「だから何もしない方がいい」という後ろ向きの結論の間で揺れる。秩序の摩耗が怖いのは、全面戦争を正当化するからではなく、グレーゾーン活動の強度を上げ、偶発と誤算を増やすからだ。ここを一段落で言い切れるかどうかが、論考としての精度を分ける。

一方で、社説が突いている重要点もある。それは、③「我々が運営する」という含意を、真正面から危険視している点だ。ここまでで繰り返してきた通り、①②をやった瞬間に③は不可避になる。だが不可避であるからこそ、③は最も重い。治安と行政の空白を埋めるには、責任とコストと長期化のリスクが付いて回る。イラク・アフガニスタンの教訓に触れるのは、社説として筋が通っている。つまり社説は「介入それ自体の是非」を超えて、「介入後の統治責任」という現実を、読者に想起させる役割を果たしている。この点は、賛否に関係なく評価できる。

結局、日経新聞の今日の社説は、日本のオールドメディアが今後採用しやすい“秩序フレーム”の代表例だ。強みは、国際秩序の摩耗と統治責任の重さを、一枚の絵として読者に提示できることだ。弱みは、法の争点を精密化せず、動機を単線化しやすく、そして米国側の束(治安・麻薬・地政学)を切り落としたまま断罪に寄ってしまうことだ。